信州 戦国ロマンを感じる旅へ

Date:2015年05月27日15時31分 | Category:特集 | Writer:ぐらんざ編集部

❶正面の大天守の左側に乾小天守が、右側に辰巳附櫓が連結している

松本
国宝松本城を訪ねて

信州・松本。
福岡からは直行便の飛行機でわずか90分と
気軽に行ける街でありながら、
九州とは全く違う空気が流れている。
そんな松本のシンボル「松本城」を訪ねれば、
いつしか心は戦国時代にタイムスリップ…。



❷黒門側から内堀・大天守を前景に北アルプスを望む

 戦乱の舞台として、武士の政治の舞台としてあった城は、歴史ファンならずともロマンを感じずにはいられない。その中でも、現在「国宝」とされているものは全国でも姫路城、彦根城、犬山城、そして今回ご紹介する松本城の4つだけだ。北アルプスを背に威風堂々と佇む松本城は、黒漆で塗られた城壁が実に特徴的だ。この黒塗りの壁は、松本城が建てられた時代に由来する。

 天守が築造されたのは、文禄2〜3(1593〜4)年。関ヶ原の戦いを目前に控えた戦国期だ。それまでの城主・小笠原氏に代わって城に入った石川数正・康長親子は城と城下町の整備を進め、近世城郭としての松本城の基礎を形作った。豊臣秀吉からの信頼厚い武将であった石川氏はその際、大阪城の黒い城壁に倣い松本城も黒漆で塗ったと言われている。つまり、城の色は秀吉への忠誠の証というわけだ。

 また、建築様式にも注目してもらいたい。松本城は大天守・渡櫓・乾小天守がひとまとまりとなっている。これはまだ戦の残る戦国末期に造られたためで、石落しや鉄砲を城内から撃つための狭間が多く、窓が少ない造りになっている。しかし、江戸前期の寛永年代になると大天守に連結させるように辰巳附櫓と月見櫓を増築している。月見櫓は三方に壁がなく、朱塗りの刎高欄がまわりをめぐるという武装がまったくない造りになっている。戦いを想定して造られた城では、いつしか優雅に月見を楽しむようになっていた。戦国期から泰平の世に移り変わった時代の流れを松本城で感じてみたい。


❸本丸正面の黒門。本丸敷地より出張る黒門の枡形虎口


❹松本城見学の後は、城下町・中町へ繰り出して。江戸末期や明治に、この一帯が大火に見舞われ多くの建物が焼失した。その教訓をもとに、「なまこ壁の土蔵」が造られ今に引き継がれている

協力/松本市・松本観光コンベンション協会
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❶八幡原史跡公園の松林の中には古くからの八幡社があり、境内には一騎討ちの像のほか、首塚もある

川中島
信玄と謙信の戦いの舞台へ

長野市小島田町にある、「川中島」。
地名を聞いただけで、
九州の私たちも在りし日の
武将たちの戦いを思い浮かべることができる。
足を運べばきっとその土地が持つ
歴史の熱さに胸を打たれるはず。



❷信玄と謙信の一騎討ちの像は、数々の小説や映画、ドラマで描かれてきたドラマチックなシーンを再現

 日本の戦国史上、最大の激戦の一つとされる川中島の戦い。戦国武将として人気が高い武田信玄、上杉謙信の両雄による戦いである。5度にわたる戦いの中で最も熾烈を極めたのが永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いだ。

 舞台となった川中島古戦場は、現在八幡原史跡公園として整備され、当時を偲ぶことができる。公園内に設置されている、「信玄・謙信一騎討ちの像」は川中島の戦いの数あるエピソードの中でも最も有名なシーンを再現したものだ。戦いの混乱の中、信玄の本陣に攻め入り愛馬に跨り名刀・小豆長光を振り下ろした謙信を、床机に座ったまま軍配団扇でもって防ぐ信玄。像の横には、「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」で知られる風林火山の武田軍旗と、謙信が自らをその化身と仰ぐ毘沙門天の「毘」の字をあしらった上杉軍旗が風になびいている。

 八幡原史跡公園の近くには、信玄の知恵袋と呼ばれた名軍師・山本勘助が討ち死にしたとされる場所、勘助宮跡も。勘助は隻眼で手足が不自由だったが、信玄はその優れた知略と城造りへの才能を認め重用していた。勘助はその恩義に報いるため、信玄のために己の全てを捧げる覚悟であったが、川中島の戦いでは自らの策の裏をかかれ武田軍を窮地に追い込むこととなった。責任を感じた勘助は、信玄を守るため決死の覚悟で上杉陣に討ち入りその生涯を閉じた。勘助の策を見破り、武田軍に気づかれぬよう静かに陣の場所を移した時に上杉軍が通った「雨宮の渡し」跡には現在碑が建てられている。

 八幡原史跡公園から北東へ赴くと、川中島の戦いの際に武田軍の基地となった海津城がある。山本勘助が築城したこの城は、川中島平全体をにらむ戦略的に重要な場所にあり、地形を利用した要塞であった。後に甲州流築城の模範となったこの名城は謙信との戦いに備え、わずか80日で築城されたと言われている。歴史に名を残す戦国のヒーローの痕跡に触れてみてはいかがだろうか。


❸長い時間の中で千曲川の流れは北に移動し、雨宮の渡しだった場所は現在農地となっている。この碑を建てかつての名残を残している


❹海津城(松代城跡)は後に真田家が10代にわたり城主をつとめた

協力/ながの観光コンベンションビューロー・千曲市観光協会
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上田
徳川郡を退けた真田家の上田城

来年のNHK大河ドラマ
「真田丸」の主人公・真田信繁(幸村)。
真田の城である上田城では父・昌幸とともに
二度に及ぶ徳川軍の侵攻を討ち破った。
寡兵をもって大軍を退けた名城の跡へ…。



❶上田城の堀は、堀を造るために掘った土を積み上げて土塁を築いている。本丸の北東(丑寅)は鬼門にあたることから、土塁の隅を切りこみ「鬼門よけ」とした

 徳川軍を二度、撃退した戦国大名がいる。後世、“真田幸村”として知られることとなった真田信繁らの真田氏である。現在の上田市真田町地域を本拠地として勢力を伸ばしていた真田氏は、信繁の父・昌幸の代に上田城の築城を始めた。当時、徳川家に臣属していた昌幸は、城を築くにあたり家康から援助を受けていた。しかし、家康は小田原の北条氏直と手を組まんがため、上州沼田領を北条方へ譲る命を昌幸に下し、昌幸はこれを拒否。これにより徳川と断交することとなった昌幸は、来る徳川軍の侵攻に備えるため次男・信繁を上杉景勝に人質として差し出し上杉方に従属することとした。築城中であった上田城は、上杉方の多くの武将を動員したことで天正13(1585)年に完成した。

 かくして迎えた第一次上田合戦―。上田城を攻める徳川軍は7千余り、対する真田軍はわずか2千人足らずであったが、昌幸はたくみな戦略と地の利を活かして大勝をおさめ、これをもって真田氏は天下に広く武名を轟かせることとなる。一方の徳川はかつて自らも出資した城の前で退散を余儀なくされたという、まさに戦国の動乱期ならではの合戦と言えるのではないだろうか。

 そして天下分け目の関ヶ原。昌幸は次男・信繁とともに石田三成方に、長男・信之は徳川家康方にと、家を二分してこの戦いに挑む。石田方についた昌幸と信繁は上田城に籠城し、中山道を進み関ヶ原へ向かわんとする徳川秀忠軍を迎え撃つこととなる。このとき秀忠軍3万8千人、昌幸・信繁軍は2千5百人と前回を上回る兵力の差であったが、またしても徳川軍の攻撃に耐えることに成功。結果、上田城での戦いに手を焼いた秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合わず、家康を激怒させたと言われている(第二次上田合戦)。しかし、その武功むなしく関ヶ原では徳川方が勝利をおさめ、真田父子は九度山に幽閉される。一方の上田城は徳川方に接収され、堀を埋められ、塀、櫓なども壊され廃城と化した。その徹底ぶりからも、徳川がどれだけこの上田城を忌々しく思っていたかを感じとることができる。

 その後江戸時代になり、真田家に代わり当地をおさめることになった仙石氏によって堀や櫓などが再建。今も残る石垣と西櫓はその当時建てられたもので、櫓の中心にある丸柱には仙石氏の「仙」の字の刻印がいくつも押されている。戦国という時代に翻弄され続けた城の跡を見れば、私たちは何を感じるのであろうか。



❷仙石氏が再建したとされる西櫓は当時のまま今も残る


❸城内にある真田神社。境内に残る井戸には抜け穴があり、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館に通じていたという伝説が残されている

協力/上田市役所 商工観光部 観光課
    上田観光コンベンション協会