真田丸に見る、戦国武将の生きた道

Date:2016年09月20日13時01分 | Category:特集 | Writer:ぐらんざ編集部


真田幸村としても知られる、真田信繁を主人公とした今年の大河ドラマ『真田丸』。厳しい戦国時代を駆け抜けた武将たちの生き様に、現代を生きる私たちも励まされている。法心寺クライマックスを迎えようとしている今、あらためて武将たちの生きた道を追いかけたい。


信濃の上田を統治する真田昌幸の次男。真田家が仕えていた武田氏が天目山の戦いで滅亡すると信繁は、父・昌幸、兄・信幸とともに真田家の生き残りをはかる。上杉、豊臣の人質や馬廻衆として働くことで、次第に豊臣恩顧の武将たちとの交流を深めていく。大坂の陣では豊臣方の武将として徳川本陣まで攻め込み、家康に死を覚悟させたという。









知将と呼ばれた父に学ぶ
父・昌幸は、“知将”とも“表裏比興の者”とも呼ばれ、奇想天外な戦略で戦国の世を渡り歩いてきた男。騙し討ちのような形をとることもあり、信繁は父の戦略を恐れながらも戦で何より大切なことは“頭”を使うことだと学ぶ。上杉に戦芝居を持ちかけ、沼田城を守るなど、次第に父譲りの才能を発揮していく。


並み居る武将たちの狭間で
上杉家の人質となった信繁は、上杉景勝に従い大坂城へ入城。そこで秀吉、三成、家康など、世の中を動かす男たちに揉まれながら昌幸は大きな成長を遂げていく。沼田城をめぐる北条との戦国裁判では昌幸の名代として活躍。また、豊臣家家臣・大谷吉継と婚姻関係を結ぶなど、中央の人物たちと密に関わり合っていく。


己の“義”を信じて進む
秀吉が亡くなると、五大老のひとり徳川家康と、五奉行のひとり石田光成の主導権争いが勃発。多くの大名が付き従い優位に立った家康から誘いがあるものの、信繁は断固拒否。馬廻衆として秀吉に使えていた信繁は、秀頼を支え誰よりも豊臣家の安泰のために奔走する石田光成側につくことを決意したのであった。信繁は知略だけでなく、義にも熱い武将となっていた。


■真田信繁・縁の地
上田城跡

上田城は、父・真田昌幸が築城した平城。真田氏はこの上田城で二度も徳川軍を退けた(第一次上田合戦、第二次上田合戦)。しかし、関ヶ原の戦いで真田昌幸・信繁がついた西軍が敗れると、昌幸の配流命令とともに上田城は徳川により破却された。現在は史跡公園として整備されている。
●長野県上田市二の丸6263番地イ

真田氏屋敷跡

上田城を築城する前の真田氏の屋敷跡は、地元からは「お屋敷」と呼ばれ親しまれている。現在は「御屋敷公園」として整備されており、ツツジの名所として知られている。
●長野県上田市真田町本原2984-1






 百姓出身でありながら信長の没後は各地を平定し、天下統一を果たす。嫡男・鶴松が幼くして死去すると、甥の秀次を養子に迎え関白職を譲る。その後、次男・秀頼が誕生後。朝鮮・明を攻略せんと二度に渡る朝鮮出兵を行う。晩年は幼い我が子の将来を案じ、主な大名たちを五大老・五奉行と定め、秀頼への忠誠を誓わせる。










型破りな人となりで翻弄
初対面の者にも無邪気な表情を見せるなど、“天下人”のイメージとは程遠いイメージを見せる秀吉。一方で、上田から上洛してきた昌幸との面会のシーンでは昌幸からの貢ぎ物である熊の毛皮を羽織るなど、相手の心に入り込む術に長けていた。歴史上では織田信長の草履取りをしていた際、冷たい草履を懐で温め信長に気に入られたエピソードも有名。


冷酷に天下を統一
権力を盤石なものとするために、時には冷酷さ・残虐さ見せる秀吉。高齢の秀吉に子供が出来たことを揶揄する落書きが発見された際は、門番を全員処刑。さらに犯人が見つかるまで町人を一人ずつ殺していくと息巻く。それほどまでに残虐になったのは、出自などにコンプレックスを抱え、加えて秀吉に反発する民の力を恐れてのことだったのかもしれない。


老いて変わりゆくときに
己の力で天下人にまで昇りつめた秀吉だが、老いていくにつれ次第にバランスを失っていく。秀次の切腹事件、理不尽なバテレン弾圧、衝動的に始めた二度目の朝鮮出兵などで家臣たちを混乱させる。肉体的にも失禁や物忘れなど、強い治世者としての姿に陰りを見せ始めた秀吉は、自らの老いや死、さらには息子・秀頼の行く末に強い不安感を抱き続けた。


■豊臣秀吉・縁の地
大坂城

太閤秀吉の城と言えば、言わずと知れた大坂城。創建当時の大天守は外観五層という巨大な造りで、さらに至るところを黄金で飾り、見る物を圧倒させる迫力があったそうだ。広大な敷地には何重もの石垣が複雑に構築されており、難攻不落の名城だったと言われている。だが、大坂冬の陣の講和後、惣構・三の丸、さらに二の丸の堀まで埋められ裸城となった結果、夏の陣で無残に落城した。
●大阪府大阪市中央区大阪城1-1

常泉寺

秀吉生誕の地に加藤清正が創建した寺院。敷地内には、秀吉の産湯に使われたと伝えられる「豊太閤産湯の井戸」や、秀吉が11才のときに手植えしたとされる「御手植えの柊」がある。
●愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47






 秀吉の親戚で幼いころから秀吉に仕え、ねねに育てられる。賤ヶ岳の戦いで活躍し、七本槍の一人として数えられる。数々の戦で武功をあげ、肥後の大名となる。文禄・慶長の役では大軍を率いて朝鮮へ出兵。このときから石田光成との不和が生まれ、関ヶ原では東軍につく。関ヶ原の戦い後は、領土改革を行い、熊本では現在も名君として慕われている。










狂気を感じる程の愛
幼少期から秀吉に可愛がられ、重用されてきたことから清正の秀吉に対する忠義心には並々ならないものがある。ドラマの中では、秀吉の側室・茶々との仲が疑わしかった馬廻衆の立花権三を井戸に落として殺したシーンが象徴的。「殿下に頼まれてやったことではない。儂が自分で考えてやったこと」という台詞からは狂信的な愛を感じる。


理屈よりも感情で動く男
秀吉に忠義を尽くす家臣同士でも、正反対の性格を持つ清正と石田光成。秀吉の母・なかが、家康の上洛と引き換えに人質として差し出されることになった際も二人は対立。戦略的に豊臣“家”を盛り立てていこうという三成と、豊臣の“人々”を心配する清正との溝は日毎に深まっていった。


朝鮮出兵で見せた手腕
ドラマ中でも雄々しく朝鮮へ出兵する様子が描かれている清正は、二番隊主将として進軍。朝鮮側からは「鬼上官」と呼ばれるほどの凄まじい戦いぶりで、次々と戦に勝利した。さらに朝鮮の二人の王子を捕虜としてとらえる働きも。また、秀吉が欲していた滋養強壮にいいとされる虎の肉を手に入れるために、虎狩りをしたという逸話も残されている。


■加藤清正・縁の地
名護屋城跡

文禄・慶長の役の際に出兵拠点として築かれた城。築城の名人として知られる清正は、この城の普請の際、力を発揮した。約17ヘクタールにおよぶ敷地で、当時では大坂城に次ぐ規模だったという。また近くには、加藤清正を始め、130以上の大名の陣屋が構築され、20万人以上の人々が集ったとされる。
●佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3

法心寺

肥後の飛び地の領地である鶴崎にある清正建立の寺院。参勤交代の際は熊本城を出発の後、阿蘇を超え、鶴崎の港から出港し東へと旅立っていった。法華経の信者であった清正は、江戸や大坂に向かう際、宿泊する鶴崎にもお題目を唱える道場がほしいと建立したのが始まり。
●大分県大分市大字鶴崎354