世は万華鏡(44)

Date:2017年01月20日13時01分 | Category:世は万華鏡 | Writer:ぐらんざ編集部


時間を30分前に戻せるなら

『黄昏流星群』(弘兼憲史)は我々の世代に人気の社会派漫画だ。中年、熟年、老年が主役で、私自身に重ね合わせて読んでいる。最近の一冊に「冬の金星」という話があった。ストーリーはこうだ。
 勤めていた証券会社が倒産した大田は個人タクシーの運転手になる。ある日、中年の男性客を乗せる。ところが、この客、「財布を忘れた。その代わりタバコを一本差し上げますから勘弁して」。
「ふざけないでください」と声を張り上げると、客は「いや、このタバコはただのタバコじゃない。これを喫うと、時間を30分前に戻せるのです。私の言うことが信じられないのは当然です。しかし、私は人間ではありません。人々に幸せを与える天使です」。そう言って後部座席から空中へと消えてしまう。
 アパートに帰った大田は、そのタバコを前に腕組みをする。「これを喫うと、時間を30分前に戻せるとか言ってたな…」。ハッと思いついたのが2日後の有馬記念。30分前に時間を戻せるなら、レース結果を知ってから勝ち馬券が買える。「よしッ」と全財産35万円を手に競馬場へ。
 そこにタクシー仲間の山崎から電話が入る。「コーヒーでも飲もうか」と話がまとまって、待ち合わせの場所に山崎がタクシーを走らせてやってきた。その時だった。
 山崎の車の前に幼い女の子が突然、飛び出した。跳ね飛ばされて大きく宙を舞った女の子は即死。泣き叫ぶ母親、傍らでは山崎が顔を抑えて嗚咽している。
 本命レースの出走時間が刻々と迫っていた。「もう行かないと間に合わない」。だが、大田は迷った末に決断する。天使がくれたタバコを取り出し、火をつけた。するとどうだろう。一帯は事故が起こる30分前の状態に戻ったのだ。
 |女の子が山崎の車の前にもうすぐ走り出そうとしている。「危ない!」。大田は必死で抱きかかえて事故を防いだが、誘拐犯に間違えられる。警察ではお灸をすえられ、窮地を救ってやったはずの山崎からは「わいせつ男」と絶交される。
 競馬での一攫千金も夢と消えたが、大田は「これでよかったんだ」と自分に言い聞かせる。しかし、一部始終をみていた天使は大田に素晴らしい「金星」をプレゼントする…。
    ☆   ☆
 旧冬、福岡市内の病院にタクシーが突っ込み、沢山の死傷者が出た。遺された方々の悲しみはいかばかりだろうか。もし、天使のタバコが手元にあれば、あの時間を30分前に戻すことが出来るのに…。「冬の金星」を読み返しながら、何度もそうつぶやいている。
(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)



馬場周一郎=文
幸尾螢水=イラスト