今に残る、幕末・維新の跡を訪ねて

Date:2017年09月20日13時01分 | Category:特集 | Writer:ぐらんざ編集部




 時は、幕末。福岡藩をおさめていたのは、11代黒田長溥。彼は、薩摩藩島津家からの養子であり、島津斉彬の大叔父であるが2歳しか変わらなかったことから、江戸屋敷で兄弟のように育ったという。そんな彼は、西洋式に富国強兵を進めた斉彬と同じく、精錬所や反射炉を建設、藩士に西洋技術を学ばせるなど藩の近代化を進めた藩主であった。

 そんな折、黒船が来港。攘夷が声高に叫ばれる中、長溥は幕府の無策をせめ、開国し先進技術を取得することをしたためた建白書を幕府に提出。彼は開国を薦めつつも、実姉が徳川家斉の御台所であること、また養子として黒田家に入っていたため“お家大事”の意識からも佐幕派であった。

 しかし、長溥が開明派佐幕派である一方、藩内は家老・加藤司書や、月形洗蔵などが中心となって尊王攘夷をとなえる筑前勤王党が力をつけるなど、藩の執るべき道をめぐり、大きく揺れ動いていた。

 そんな不安定な福岡の中で、己が信じる日本の未来のため動いていた志士たちの足跡をたどる。



 福岡藩の家老という要職にありつつ、筑前勤王党のリーダーでもあった加藤司書。1863年、第一次長州征伐が起こった際は、藩主・黒田長溥の「外国の脅威が迫る今、国内で戦をする時ではない。国防に専念すべき。この件は穏便に解決をするべき」という建白書を持ち、幕府大本営が置かれていた現・広島県に入る。薩摩の西郷隆盛とともに参謀会議を止戦解兵へとリードし、その名を上げたという。その時に詠んだ下記の歌が、現在、冷泉町にある天福寺跡に石碑として残っている。

 まさに、加藤司書たちの働きにより、福岡藩も維新に大きく関わろうとしていたその時、今後の福岡藩を大きく揺るがすことが起きる。それは明治維新の2年前。福岡城は海に近いため、非常の際には藩主親子を内地に避難させようと加藤たちは犬鳴山奥に福岡城別館建築を計画。そのことが保守派から、「藩主誘拐・謀判のおそれあり」と弾劾状を突きつけられる結果となった。その結果、加藤司書をはじめとする多くの勤王派が命を落とす乙丑の獄につながり、維新に通用する人材を根こそぎ失ったと言われている。






 維新の中心となった長州藩を率いた高杉晋作。第一次長州征伐が迫る中、長州藩内では幕府への恭順もやむなしとする保守派(俗論派)が力をつけ、反対勢力の晋作には危険が迫っていた。

 そんな晋作の窮状を助けたのが、晋作と志を同じくする福岡藩士・月形洗蔵だ。筑前勤王党の志士であった月形は、当時勤王派の藩士たちから母のように慕われていた野村望東尼に彼を引き合わす。

 福岡藩士の娘として生まれた野村望東尼は、夫の死後、数年の間、大阪・京都に滞在していたが、その間に寺田屋事件などを目の当たりにした。そういうこともあり、野村望東尼は次第に尊王攘夷など政治に関心を持つようになっていったという。その後、福岡に戻ると、自らが隠遁していた平尾山荘を度々勤王の志士たちの密会の場として提供、また逃れてきた志士たちをかくまうこともあったそうだ。

 その中の一人が、高杉晋作である。長州から逃れてきた高杉晋作を野村望東尼は温かくむかえ、彼の心を癒す。その間に高杉晋作は、博多にあった水茶屋に月形洗蔵と共に遊びに行ったという逸話も。高杉晋作が長州へ戻る際、野村望東尼は手縫いの旅衣を渡して見送った。滞在はわずか10日間ほどであったというが、高杉晋作は英気を取り戻し、再び動き始める。

 高杉晋作と野村望東尼の話はそれだけでは終わらない。その後、福岡藩が乙丑の獄で勤王派を一斉処分した際、野村望東尼も捕らえられ姫島に流罪となる。報せを聞いた高杉晋作は彼女を脱出させる手引きをし、下関に匿う。その後、病床に倒れた高杉晋作を野村望東尼は手厚く看護し、臨終の際もそばに寄り添っていた。高杉晋作が、かの有名な「おもしろき 事もなき世に おもしろく」という句を詠むと、彼女は代わりに続けて「すみなすものは心なりけり」と下の句を詠んだという。






 幕末・明治維新を語る上で、もう一人欠かすことができない人物の西郷隆盛。だが、彼は青年時代に、福岡の志士・平野國臣から命を救われたことはあまり知られていない。

 薩摩藩主・島津斉彬に可愛がられていた西郷隆盛。彼は藩の命を受け、一橋慶喜を次期将軍に推すため、朝廷と薩摩藩の橋渡しを担っていた京都の僧・月照と接触をしていた。そんな時、思いもよらぬことが起きる。斉彬が急逝したのだ。京都で報せを聞いた西郷隆盛は、心から慕っていた斉彬の死にショックを受け、後を追おうとする。しかし月照から思いとどまるように説得され、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。

 西郷の苦難はそれだけでは終わらなかった。幕府の実権は井伊直弼が握り、反対勢力を弾圧する安政の大獄が始まっていた。月照にも危険が迫り、西郷は薩摩藩内に匿うことを画策。そのときに、西郷たちの力になったのが平野國臣だった。

 西郷隆盛と月照が福岡藩に到着した際、平野國臣は西郷隆盛が一時的に隠れる宿として唐津街道沿い、現在の親不孝通り近くにある福萬醤油の醤油蔵を紹介したという。現在、その場所には「西郷南洲翁隠家乃跡」の碑が建っている。

 その後、月照を匿う根回しをするため、西郷は一足先に薩摩に向かう。残された月照を無事に薩摩に届ける任を受けたのもまた、平野國臣であった。厳しい検問をかいくぐるため、ふたりは山伏の格好をし、一路薩摩へと向かう。

 しかし薩摩に先に入っていた西郷を待っていたのは思いもよらぬ、藩の対応であった。月照を匿えば、幕府の矛先が薩摩に向く—。そう判断した薩摩藩は西郷に「月照を日向に送れ」と指示。これは暗に道中で切り捨てよということを意味していた。非情な決断に西郷と月照は絶望し、ふたりは錦江湾に身を投げたのだった。

 結果、月照は絶命。しかし、西郷隆盛は船に同乗していた平野國臣に救出され一命を取り留めた。

 福岡の志士・平野國臣がいなければ、西郷の人生はここで終わり、その後の歴史はなかった。まさに福岡ゆかりの人物が歴史を動かしたときと言えよう。




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