はかた宣言・78 猫は天守を見たか?

Date:2017年12月19日15時13分 | Category:はかた宣言 | Writer:ぐらんざ編集部


 福岡城は慶長6年からつくりはじめて12年(1607)に完成した。天守台はいまも残っているんだけれど、かんじんの天守閣が建てられたのかどうかは、現在進行形で論議の的なんだ。

 ま、残された史料を見ると、天守※1は建てられていたと思えるんだなあ。史料は新修福岡市史の『福岡城 築城から現代まで』(以下A)に紹介されている。そのうちの細川忠利や忠興の書状によれば、黒田氏は幕府が大名たちに命じた大坂城普請※2のとき、天守も石垣も館もこわして普請の材料にしたみたいなんだ。

 そこにもうひとつ天守を壊した理由をプラスしてみたい。それが「相島から城が見えたから」という理由さ。これって福岡城天守論議では衝撃的新説のはず、いや珍説かな。

 とりあえず新説の説明だ。黒田如水と長政父子は、鴻臚館のあった場所に福岡城をつくった。迎接施設を戦備えの城に変身させるとはいかにも武人だね。でも、朝鮮通信使を迎える※3ことになったんで、別の迎接場所が必要になった。なにしろ城というのは防衛施設だもの、あんまり人に見せるもんじゃあない。んで、博多湾から離れた不便な外海の相島※4なのさ。ところがその相島から城が丸見えだったのが想定外。それで天守閣なんかを壊して城のようすをわからなくした、というのが推論なんだけど、どうだろうね。

 警戒するのは相手もおなじ。あの貝原益軒が相島で※5通信使の学者に朝鮮の地理や民俗について尋ねようとしたら「国禁」だからと答えなかったというんだね。国交とはむずかしいね、おたがい自国ファーストだから。

 整理してみよう。天守閣など破却の理由は、‐軍家への忠誠アピール、大坂城の普請用、K苗戯、ぞ襪鯡ご粟の形にして朝鮮の警戒心を解く。ね、軍師の黒田さんだもの、一つの行動でいくつもの利点があるよね。

 左は各最高地点の標高。
〜蠹膠鷂番所跡※6付近=77.4m
奈多付近※7=14.8m
J_城=23.3m
ぢ臈啓藺罅34m※8

 ま、こんなふうに調べなくとも、渡船から福岡ドームが写っている写真がブログに公開されてる。400年前の相島の猫は天守閣をちゃんと見たんだよ。でも、猫の視力※9は0.1とか0.2で、きちんと識別できるのは10m先ぐらいまでなんだって。猫語を習って、にゃんこに先祖から伝わっているに違いない天守閣の話を聞きたかったのに、ざんねん。


※1)天守…史料では天守・天主と書いて天守閣ではない。天主櫓かも(A23頁)。また天守台は大中小あり史料の天守が何を指すかも不明
※2)大坂城普請…大坂城普請(元和6/1620年)で半役を命じられた黒田家は、倍の本役を申しでた。その部材に天守石垣居館を壊したようだ。A29頁細川家書状
※3)朝鮮通信使を迎える…慶長5年関が原の戦いの後12月に黒田家は名島城入り。翌6年から築城開始。朝鮮の役の3年後で明・朝鮮軍の襲来も想定しての城構えのはず。そこへ慶長10年朝鮮国使が来日、家康と講和を約した。黒田父子は拍子抜けしただろうが、新天下人の意向を慎重に忖度しただろう
※4)外海の相島…56回鴻臚館場末論で迎接施設は防疫防諜のため都市のはずれに置くはず、と持論を書いた。島嶼は防疫防諜には好都合
※5)貝原益軒が相島で…第7回通信使のとき。『FS―特集朝鮮通信使』50頁。次頁の辛基秀氏の文に「博多湾の藍島」(相島)と誤記がある
※6)相島遠見番所跡…鎖国になって福岡藩は異国船監視の遠見番所を相島など5か所に設置。新宮町HPに番所跡は海抜70m。77.4mは国土地理院地図による付近の最高地点
※7)奈多付近…松林の高さも必要
※8)34m…ネット記事
※9)猫の視力…ネット『にゃんペディア』