長谷川法世のはかた宣言100・清原(名欠)

長谷川法世のはかた宣言100・清原(名欠)


 はかた宣言も皆様のおかげで連載100回を迎え…うッうッ、と感泣している場合ではない、親分、てーへんだ、清少納言のお兄ちゃん殺害の続報ですじぇ!

 清原致信(きよはらのむねのぶ)殺害事件については、藤原道長(みちなが)の『御堂(みどう)関白記※1』の記事、寛仁(かんにん)元年(一〇一七)3月11日の条を先月紹介した。実は関連記事がもうひとつある。4日後、15日の条だ。

 ー〈実行犯の秦(はた)〉氏元(うじもと)を追捕(ついぶ)した検非違使たちが、日記を奉って云ったことには、「氏元の家の法師を召し問いましたところ、申して云いましたことには、『この〈源〉頼親(よりちか)朝臣の命によって、氏元が殺人を奉仕しました』ということでした」と。仔細は、多くのことが記されていた。今日、除目(じもく)※2を行った。淡路守(あわじのかみ)に(源)貞亮(さだすけ)、右馬頭(うまのかみ)に(藤原)惟憲を任じた。これらの官は、頼親(これのり)の替わりである…ー

 致信殺害事件に関して道長が書いた記事は、3月11日と右の15日の2件だけ。首謀者である源頼親の官職罷免※3が処罰として記されるのみで、殺害実行者たちのことはわからない。被害者致信が、清少納言の兄とも書いていない。

 事件のことを知った当初、まだ何かないかと積読していた『平安の春※4』を読んでみた。そこではじめて、致信と清少納言が兄妹であると知ってびっくりだった。それからあわてて清少納言と藤原道長の評伝※5をよんだけれど、事件の出典※6は同じで、これまで書いたことがほぼすべてだ。

 では、前大宰少監(さきのだざいのしょうげん)という官職から、大宰府での足跡をたどれないものだろうか。手もとの『大宰府古代史年表』の「官人補任(ぶにん)表※7」をめくってみた。事件のあった寛仁元年から年表をどんどんさかのぼって、百年前(笑)までいっても清原致信の名前はでてこない。だいいち清原姓は二人だけだ。

 そのうち1人は、天延三年(九七五)の「清原(邦縁(くにより))」で別人だ。のこるは正暦(しょうれき)四年(九九三)の「清原(名欠)」という記録だ。この清原(名欠)は同年同日に二度載っていて、同一人物だろう。そして、これを清原致信と断じてもよいのではなかろうか。

 正暦四年は中宮定子へ清少納言が宮仕えした年※8とされる。一条天皇へ定子が入内して3年目、天皇の伯父であり中宮定子の父である関白藤原道隆(みちたか)が2年後に急死するまでのうたかたの絶頂期なのだった。

 そして、大宰府の「清原(名欠)」の周囲には、ちゃらっとした※9筑前守兼任の大宰少弐藤原宣孝はじめ、カオスの如き大宰府人事があった。次号必見!

※1)御堂関白記…引用は倉本一宏全現代語訳『藤原道長「御堂関白記」』講談社学術文庫。〈 〉は法世補。
※2)除目…平安時代以降大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式。春の地方官任命の除目(現代の春の人事?)、秋の任命の除目(文化功労者表彰などにつながる?)、臨時の除目も。
※3)源頼親の官職罷免…数年後には赦免。
※4)平安の春…角田文衛・講談社学術文庫
※5)評伝…吉川弘文館人物叢書岸上慎二『清少納言』・山中裕『藤原道長』
※6)出典…御堂関白記・古事談・扶桑略記
※7)官人補任表…推古17年〜久寿2年の五四六年分の大宰府の官人の官職名・位階・名・出典などの一覧。筑前守の補任一覧もある。
※8)宮仕えした年…岸上慎二『清少納言』
※9)ちゃらっとした…『枕草子』あはれなるものの段に、ひとは質素な衣装でいく御岳詣でに宣孝は、御嶽はそんなこと仰らないだろうといって、ちゃらちゃらした格好ででかけた。そのおかげか二か月後に筑前守に任命された、と書いている。正暦元年(990)の実話。

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